2024・8
放課後アート教室で行われた活動の一コマをレポートしようと思います。流し素麺の記録です。普段は事務局としてグリーンキャンバスに関わっているたかちゃんが、記録いたします。立ち上げ当初からずっと見ていたアート教室の「今、ここ」が伝われば何よりです。
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遊びには創意工夫があったはずだった。昔もあって今もあるはずなのだ。
何もないところから何かが生まれる。
現象を楽しむ、それがくっしー先生のアート教室の醍醐味で面白みだと思う。友達がいて、時間を過ごすこと。そして、里山ができて、空と原っぱと時間があれば、面白い遊びが生まれてくる。それは、とても贅沢なひと時。(贅沢って思いませんか?)
そもそも竹が里山にたくさん生えていた。
開拓班の大人達によって里山が開拓されてから、里山が子どもの遊びのひとつに加わった。流し素麺をしたい、という言葉がアート教室から出てきていた。
思いつきの言葉だろう。連想ゲームみたいに。
それから1年、アート教室のみんなは、里山という環境になれ、季節を感じ、キノコ菌打ちからはじまって、作物の看板づくり、七夕の竹取りや藍の栽培、藍染、手作りの作物を収穫し、秘密基地づくりなど、子どもたちの中でどんどん野遊びをやっていくことで、やってみたいことが現実的に自分とリンクして行った。
そんな時にはじめて、「流し素麺、やってみようか。」ということにつなげた。
ここにはくっしー先生からのひとつの考えがあった。
「自分らでできるなら。」ということだった。
やってみようが現実になるまで、1年をかけている。すぐにやらないし、お膳立てはしない。もちろん、大人もお手伝いはするけど。一部の人がやりたいって言った言葉から実現するために物事が動き出すと、アイディア外の子もたくさん心が動いて、集まってくる。
6年生が竹を倒し、割って、火曜クラスで運び、節を落とした。
できないところは大人も加わった。
アート教室月曜と火曜のクラスがあり、それぞれに縦割りの学年構成も違えば、性質や人間関係、まとまり方も違う。6年生は火曜クラスにおり、高学年が少ない月曜クラスは特にその段階では何も参加していなかったが、俄然、興味が湧いてきて、「流し素麺を主体的にやる」という流れになった。
でも、どうやって?何からやるの?
どうやって竹を組んで流すんだ?
何かで見た事あるけどやったことない、、、。
そして、薬味は何がいいか?
何があるのかも考える。
実は用意されている薬味が前提ではあるけれど、それでも「何がいいかな?」からはじまるのがアート教室らしいというか、くっしー先生らしい。アイディアが出ても用意がない食材があっても関係なく話が進む。こんな薬味も面白いね、など、薬味だけで話が広がる。かなり時間をかけてやりとりしながら話すせいか盛り上がる。
みんな流し素麺への思いが高まってゆく。
子ども同士の対話の時間がとても楽しい。
いただいたみょうがやプチトマトもある。汁はあらかじめ用意されていた。
そこから、装置班、薬味班、麺茹で班の3班にグループ分けも自分たちで話し合う。
装置班は、ああでもない、こうでもない、あるものを組み合わせ、トライ&エラーを繰り返す。ここには使ってはだめなものは一切ない。お咎めなしだ。竹の高低差をつける工夫を行い、ジョイントし、食品専用ホースから竹に水を流し込み、さらにミニトマトで実験。最後、麺を流すテストを行い完成した。アートの2クラス、後日、学習教室「まなびや」の子たちも流し素麺装置の設営に各々チャレンジしたのだが、それぞれの工夫とアイディアで装置を完成させた。ここには麺を流すというミッションがあるだけで正解はない。そう、テストのような正解はなく、自らが経た体験や経験だけが自分の答えになるということ。
意見を出し合い、もめることもなく、上の学年は指示をだしながら動き回り下の学年の世話をし、下の学年もせっせと気がついたことをやりながらお手伝いをしていた。立派な協働を子ども達ははたしていた。
椀に汁を入れ、薬味バイキングと名付けられた出店のような店先で薬味を思い思いに入れ、誇らしげに水が流れる竹の前で整列するみんなの表情といったら。はつらつとして自信たっぷりだ。なんて子どもらしい表情!
最後、
「麺が流れてこないよ??」
「え?誰が流すの?」
あえて黙って見ていたくっしー先生はじめ、他の大人達。
「みんなはお客さんじゃないんだよ。」
「じゃあ、流してもらえませんか?お願い!」
「先生達食べる時、流すから!」
スルスルと麺が流れてゆく。箸が苦手な子も文句ひとつ言わず必死に流れる麺を追う。
なんとか箸を使って麺を掬うんだ!苦手なんか関係ない。
食べたいから食べる。美味しいね、よかったね。
2日間にわたるアート教室の流し素麺、大変美味しい活動でした。
※写真編集上の都合により
クラス混合の掲載になっています。
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